変若水で泳ぐ山姥の日記

をちみずでおよぐやまんばのにっき

愛のうた まもなく満ちる 小望月に寄せて 2013.4.25

月齢14.7

 

聖なるものが聖なるものであるために、清きものが清いままであるために、その裏で穢れを引き受ける人がいるのだとしたら、この世に尊くない人はいない。

穏やかな幸せが欲しいと言いながら、陰を愛し、闇を求めるのは、そこに、陽の光にはない真のいたわりと本質的な美しさを見るから。

満月の夜、あの人はおそろしいオオカミになるという。
狼は、大神。

…ならば、その同じ月を見て泣くのは、かぐや姫か、それとも、もののけ姫か。

微笑みながら無邪気にすべてを奪うもの、自らも傷つきながら狩って喰らうもの。
どちらにもなれない石のような心なら、粉々になって塵と消えてしまえ。
そうしたらいつかは、かろうじて、誰かが蒔いた種を芽吹かす土のこやしの一粒くらいにはなれるでしょう。

歴史をよめば、それは人々の恐れの軌跡だという事が分かる。どうしてこんなにも、たくさんの祈りの場が必要だったのか。大きな墓に、何を託したのか。小さな仏像に、何を願ったのか。焼かれても、壊されても、かたちを変え、日常にありつづけるそんな不思議な場所は、人の心の弱さと、現実的な強さという矛盾の証なのでしょう。

失う事をおそれ、痛む事を恐れ、傷付く事をおそれ、汚れる事を恐れ、堕ちる事を恐れ、死して朽ちる事を恐れ。

生き死にの、裏と表の境にもならぬ境を、無意味に広げて遠ざけて、一方を善とし、一方を悪とした。その分離が、人と神をも分けた。

在るものを、在るべくして在ると、一糸まとわぬはだかのままで抱くことが出来たらいいのに。

わたしも、こわいことはいっぱいあるけれど、それでも人は、恐れ無しには生きる事も出来なかったでしょうに、その理不尽さと、それらを甘んじて、もしくはあきらめとともに、時におさまり切らぬ怒りとともに受け入れた人達の、声ならぬ声に耳を傾ける事でわずかながら鎮める事ができるとするなら、私はこの際、その血を飲んでケモノに同化してみようか…なんて、ふと思ったりもします。

知らなくて良かった事、関わらなくて良かった事も、あるでしょう。触らぬ神に祟りなし。わかっているのに、その研ぎすまされた諸刃の剣のような姿を前にしたとき、ついつい自らの手で触れてみたくなるのが人ですね。

それを、欲というのでしょうか。
あぁ、胸が苦しい。

とけるように、 ほどけるように、静かに終りますように。
愛しています。